房総半島の旅について、わかりやすく解説してゆきます!
市川塩浜・幕張の地理・歴史について、やさしく解説してゆきます!
東京駅→越中島駅→新木場駅→葛西臨海公園駅→舞浜駅→新浦安駅→市川塩浜駅→南船橋駅→新習志野駅→海浜幕張駅→検見川浜駅→千葉みなと駅→蘇我駅
※上記は全ての駅ではなく、スペースの都合上筆者が独断でピックアップしたもの
舞浜・習志野・幕張方面へ 千葉県に入る
葛西臨海公園駅(東京都江戸川区)・舞浜駅(千葉県浦安市)を過ぎると、続いて
- 市川
- 船橋
- 習志野
- 幕張
と進んでゆきます。

葛西臨海公園駅(東京都江戸川区)を出発。奥に見えるのは、葛西臨海水族園。
ここからは、本格的に千葉県の行程に入ってゆきます。
- 葛西臨海公園駅を出て、
- 旧江戸川(東京都と千葉県の県境)を渡り、
- 前回紹介した東京ディズニーランドの最寄駅である舞浜駅(千葉県浦安市)からは、千葉県に入ります。
つまり、ここからは長い長い千葉県の旅ということになります。
東京ディズニーランドは、千葉県にある
東京ディズニーランドについては前回少し解説した通りなので、そちらをご覧ください。
なお、東京ディズニーランドは東京都ではなく、千葉県(浦安市)にあります。
しかし「千葉ディズニーランド」ではないので気をつけましょう。
アメリカ発祥であるディズニーランドは世界中の人々から来てもらうことを想定していたため、国際的に知名度の高い東京(Tokyo)の名前を冠するという選択肢が取られたのでしょう。
市川塩浜駅に到着
千葉県に入ると、まずは
- 浦安市
- 市川市
と過ぎてゆきます。
すると市川塩浜駅(千葉県市川市)に着きます。
江戸時代、貴重な塩を生産していた市川塩浜
塩浜とは、昔、簡単に塩を作っていた海岸という意味になります。
今では塩は工業生産で大量に生産できますが、江戸時代までは限られた沿岸部でしか採れない貴重なものでした。
市川の地には「行徳塩田」という塩田がありました。
塩田とは、砂浜の上に海水をつけて、蒸発させることで塩を得るという田んぼです。
現在では工業化されているため、その多くは廃止されています。
行徳とは、千葉県市川市にある地名です。
なぜ「塩」は重宝されてきたのか
「塩」は、昔は非常にとても重要でした(今も重要ですが)。
塩は現代の我々にとっての「お金」「スマホ」などと同じくらい重要でした。
塩は食べ物の保存(腐らせないようにする)などに使われてきたほか、例えば長野県のような内陸部では、雪を溶かすためにも重宝されてきました。
例えば長野県(信濃国)のような内陸部では海が無いことから、塩が自前で生産できなかったのでした。
そのため、わざわざ沿岸部から運んできてもらって購入していたのでした
その代わり、長野県でしか採れない物を彼らにあげるという物々交換のような感じで、購買が成り立っていたのでした。
余談ですが、長野県塩尻市では、ちょうど沿岸部から運ばれてきた塩の在庫が切れる場所だったことから、「塩尻」という名前がつきました。
瀬戸内海で盛んだった「入浜式塩田」
さらに、江戸時代には瀬戸内海のような沿岸部では塩浜(塩の採れる沿岸部)では、
- 満潮と干潮(塩の満ちひき)の差を利用して、塩を生産する
という、「入浜式塩田」がありました。
瀬戸内海は、塩が満潮・干潮へとうつるときに、
- 潮が(瀬戸内海の)内部に移ったり、
- 外部(太平洋など)へと出ていったり
する性質があったからです。
江戸時代、塩を生産できる土地は、限定的だった
しかしこのやり方だと、干満の差を利用できない高緯度地域では、塩の生産ができません。
そのため、上記のやり方での塩の生産は東北地方の宮城県あたりでストップしていました(北限)。
逆にいえば、瀬戸内海沿岸地域は塩の生産で(他の地域に比べ)圧倒的有利になるわけです。
塩は「専売」の対象となってきた
このように、塩は生産できる地域が限定されているため、幕府や藩・政府などによって「専売」の対象となりやすかったのです。
専売とは?
ここで専売とは、簡単にいえば自分たち以外の人には売らせないようにするやり方です。
これによって、幕府・藩・政府にとっては安定した収益(税収)が独占的に確保しやすいものとなっていました。
ましてや塩は生活必需品ですから、なおのこと専売の対象に選ばれやすかったのです。
有名なところでは、現在の兵庫県赤穂市にあたる赤穂藩による塩田です。
この塩田の利益をめぐって、「忠臣蔵」で有名な赤穂事件が起きたという説もあります。
塩の他の専売の対象としては、米や銅、タバコなどが挙げられます。
塩やタバコ等は、明治時代に専売制となっています(塩は1905年に専売制へ)。
当時は日露戦争というロシアとの戦いで、とにかく軍事費用に金がかかる時代でした(軍事費用を少しでもケチったら即負けて、国が滅ぶこと確定だったため)。
この日露戦争の軍事費用を確保するため、塩やタバコなどに税金をかけて軍事費用に充てるという狙いがありました。
しかしこれによって、塩の値段が跳ね上がるため、当時の国民からはかなり反対されたようです。
そうした塩の専売も、1997年には廃止となりました。
また、たばこも1985年に日本専売公社が廃止されたため、たばこの専売制は廃止されています。
余談ですが、
- 日本専売公社は、日本たばこ産業株式会社(JT)へ
- 日本電信電話公社(電電公社)は、NTT(日本電信電話株式会社)へ
- 日本国有鉄道(国鉄)は、JR(日本旅客鉄道株式会社)
として、それぞれ生まれ変わっています。
江戸時代「入浜式塩田」の台頭
塩は、明治時代には(より自動で大量生産できるように)工業化されていったのでした。
そのため、それまでの塩田を利用した塩の製造では敵わなくなってしまい、廃止されてゆきました。
また、市川市の行徳塩田も、先述の瀬戸内海から下ってきた(←江戸にやってきた、という意味)塩(先述の「入浜式塩田」のメリットを生かした、大量生産できる塩)には勝てずに、苦しんだようです。
江戸時代は大坂(大阪)のことを「上方」と呼んでいたため、関西方面から江戸へ商品などが仕入れられていくことを「下ってきた」といっていました。
それが転じて、江戸に下ってきたろくに使い物にならないものを、「下らないくだらない」と呼んだため、「くだらない」という日本語の語源となりました。
現代では、かつての塩田は観光地化されていっています。
今回は、塩の話題が「拡大」しすぎた
以上、塩の話題が、だいぶ拡大しすぎて申し訳ありません・・・
あなたが少しでも塩の歴史や、全国各地にある「塩」がつく地名の由来などについて興味をもってもらえる機会になれば幸いです。
物流の拠点としての、沿岸地域
そしてこの辺り(浦安市・市川市・船橋市あたりの沿岸地域)は、いわゆる「物流」の拠点となります。
「物流(ロジスティックス)」とは、届いた荷物を全国に送ったり、また受け取って配送・出荷などをしたりすることです。
ではなぜこのような沿岸地域が物流の拠点になりやすいのかというと、港が近いため、他所や海外から仕入れてきた(逆に、「出荷」する)「材料」などを扱いやすいからですね。
逆に、もし物流の拠点が山奥にあったりしたら、材料や商品を遠くまで運ばないといけないため(トラックで山奥まで運ぶ苦労、人件費、ガソリン代などで)、コストが上がります。
コストが上がると、他の業者に価格の競争優位性で負けてしまいます。
そのため、便利な海側が、物流の拠点に選ばれるということになります。
幕張に到着
やがて、千葉市の幕張と呼ばれる地域に到達します。
「幕張メッセ」が有名ですね。
幕張メッセはいわゆる「コンベンションセンター」と呼ばれる場所であり、簡単にいえば世界中のスゴい人や企業・お金持ちの人達が集まって、会議をしたり、講演をしたり、展示会などをしたりする場所です。
大物アーティストのコンサートなども行われます。
また、幕張の海側には、 千葉ロッテマリーンズの本拠地であるZOZOマリンスタジアムもあります。
源頼朝に由来する「幕張(馬加)」の地名
幕張は、古くは馬加と呼ばれていました。
それが時代とともに、「馬加→幕張」と変化していったわけです。
馬加という地名の由来は、源頼朝がここで馬を乗り換えた(つまり、新しい馬を加えた)という故事に由来します(諸説あり)。
馬を加えたから「馬加」というわけですね。
源頼朝は、
- 1180年の「以仁王の挙兵」の後、
- 神奈川県・伊豆近くの「石橋山の戦い」で敗れ、
- 真鶴から相模湾・東京湾を渡って、
- 房総半島に上陸していた
のでした。
その後の頼朝は房総半島中の(平氏に不満を持つ)武士たちを次々に味方につけ、平氏を滅ぼし、鎌倉幕府を開いたのです。
また、源頼朝が1199年に馬から落ちて亡くなったと言われる「馬入川」も覚えておきましょう。
馬入川は神奈川県茅ヶ崎市の相模湾(太平洋)に注ぐ相模川のことをいいます。
鉄道唱歌 東海道編 第11番でも歌われていますね。
以下の記事で解説しておりますので、ご覧ください。

千葉みなと駅を過ぎ、やがて蘇我駅へ
海浜幕張駅(千葉県千葉市)を過ぎていくと、
- 千葉みなと駅(千葉県千葉市)
を経て、やがて外房線と内房線との分岐駅である、蘇我駅(千葉県千葉市)に着きます。
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